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 本村の中央を東西に流れる吉野川、この吉野川は、古来から利根川の板東太郎、筑後川の筑紫次郎と並び四国三郎の異名を持つ我が国でも有数の大河川です。
  吉野川流域では、しばしば大規模な洪水が発生し、瀬戸内側では水不足に悩まされていました。これらを解消するため、四国のいのち早明浦ダムが完成しました。


 早明浦ダムの建設によって、四国四県に農業用水・都市用水として供給し、様々な役割を果 たしていますが、大川村は、この建設により、主要集落が水没し、多くの方が村を出ていってしまいました。


 今では、渇水などダムの水位が減ってくると、ダムのそこに沈んだ役場旧庁舎が現れてきます。
 また、淡水赤潮の発生や湖岸の浸食から景観が損なわれている為、ダム管理者に対応を要望しています。


 大川村の東北、朝谷部落の北部、四国山脈の南に面した山の中腹に、四国では別子・佐々礼に次ぐ第3位、高知県では第1位に位する「白滝鉱山」があった。
  白滝鉱山は、日本鉱業株式会社の経営により近代化学による大規模な設備がなされ、従業員500人で、月産鉱石1万トン、製銅100トンを産していた。
 当時、この地域には、417戸、1,960人が住んでおり、学校も小・中学校があり、児童数400人(12学級)、生徒数186人(5学級)、外に、私設の幼稚園もあった。また、映画館もあり、週2回上映され、テレビは全戸数の約90%まで普及していた。


 月産1万トンの粗鉱を採掘して長期安定黒字操業を目指した白滝鉱業所も昭和43年からは、経営赤字となり、昭和47年3月末での閉山が決定した。また、閉山を前に、この地域に大火が襲い、この地域はわずか4世帯9人の居住者を残すのみとなった。


 昭和50年代後半から、村づくりが開始された。そして、白滝鉱山跡地約400haに一極集中型の拠点開発により、「自然王国白滝の里」が完成した。

元禄12年2月(1699) 本川銅山(大北川銅山)土佐藩により開炭
(四代藩主 山内豊昌公時代)(元年13年に坑道6箇所、荒吹釜3、真吹釜2、坑夫小屋51軒、役宅9軒、稼業人526人男471女51、他国者469人、御国者57人)
元禄16年 11月(1703) 閉坑。
文化12年 10月(1815)
開坑。 阿波藩と吉野川の鉱毒水による公害問題で協講戸整わず閉山
閉坑。
文政元年5月(1818)
文政6年7月(1823) 本川郷安屋源六、野地鉱山の試堀開鉱を試みるが、阿波藩の拒否により開坑できず。
文久3年3月(1863) 開坑。藩主山内容堂 阿波藩主蜂須賀茂昭公に直接面接、同意を得て開坑。
明治4年11月(1871) 樅之木鉱山開坑。事業請負人深屋康臣(注 佐川1万石土佐藩筆頭家老 深尾重先である)
明治8年9月(1875)
中久保山外7ヵ所 土佐郡金子橋
門山実平 (借区面積2,975坪)
明治8年9月(1875)
樅之木 大阪府第二大区六小区安堂寺橋四丁目
田辺儀三郎(借区面積13,753坪)
朝谷山 借区人 同上(借区面積414坪)
中久保山外4ヵ所 借区人 同上(借区面積5,300坪)
明治9年2月(1876)
中久保山外7ヵ所 借区人 朝谷村
門田慶次郎(借区面積1,200坪)
明治9年8月(1876)
中久保山外2ヵ所 借区人 同上(借区面積400坪)
中ヵ市 借区人 同上(借区面積1,000坪)
水谷山 借区人 同上(借区面積5,000坪)
(注)明治8〜9年頃村域に於ける諸鉱山は土佐藩の手を離れ上記8鉱山が借区開炭坑され、後遂次白滝鉱山へと統合される。
明治9年10月(1876) 中久保山(借区面積893坪)朝谷山(借区面積414坪)樅之木(借区面積4,005坪)を伊予宇摩郡川之江村窪田顕一郎に譲渡。
明治11年9月(1878) 中久保山(借区面積1,200坪)伊予川之江村
窪田顕一郎に譲渡。
明治14年(1881) 窪田顕一郎と川之江村 三好旦三の経営共同者となる。
明治20年6月(1887) 窪田顕一郎・三好旦三より住友家に譲渡。
明治20年9月(1887) 住友樅之木鉱業所 開設。
明治27年11月(1894) 中久保鉱山休業。
明治29年3月(1896) 住友家より永野慶右衛門・大橋藤次・高野鉄次郎に総額3,000円を以て譲渡。

○大川村大北川中川チマキ下中條(チマキ=マケキ、下中條=下中窪の誤記か?)鉱山面積78,473坪で三ツ森、立川、中ヶ市の三山之に属して明治26年頃着手。経営者は大阪市に於ける林業家 中江種造で中ヶ市鉱山の銅山として経営。明治31年5月までに得られた産銅僅か3,152貫に過ぎず、明治30年代に廃鉱。明治40年の鉱区要覧では、前記中ヶ市鉱山の鉱区権者は東京日本橋区 田中銀太郎に替わっている。
○大川村の諸鉱山は、前に住友が譲渡した樅之木、朝谷、大北川、下中久保の鉱山はその後、石川寿一、田中銀之助、芝清五郎等幾多の稼業人の手を経て、大正4年大北川鉱山を渡辺祐常より買収したのを最後に愛媛県川之石、宇都宮壮十郎経営下に掌握されるになる

大正2年(1913) 宇都宮は宇宝合名会社による諸鉱山の経営を行い、経営効率の増進のため設備の近代化を推進。
大正4年1月(1915) 大北川藤ノ谷に最大出力120キロワットの自家用水力発電所竣工。
大正5年 (1916」) 大北川、樅の木、大川、白滝、中蔵、喜多賀和、朝谷の7鉱山(鉱区画1,590,625坪)の総合経営の実を挙げるため統一通称名を「白滝鉱山」と定めた。
大正6年1月(1917) 樅の木製錬所煙害補償協定が締結された。
(注)煙害が舟戸、小松、朝谷、大北川、高野、上津川に及び住宅地、田、畑、 三椏、山林の煙害補償について大正4、5年を含め宇宝合名会社との間に補償協定が結ばれた。
大正6年1月(1917) 宇摩郡中之庄具定(伊予三島市)まで21Kmの架空索道完成。
大正8年3月(1919) 久原鉱業株式会社(現在日本鉱業株式会社)に譲渡。
昭和47年3月(1919) 白滝鉱山閉山される。
昭和48年6月(1973) 鉱山跡地売買契約成立。日本鉱業株式会社と高知県及び大川村の間に於いて日本鉱業株式会社所有地朝谷モミノ木23.1ほか115筆面積3,504,200.59平方メートルの売買契約が総額9,500万円を以て成立(県、村の持分各1/2)
昭和54年4月(1979) 県有財産売買契約成立。昭和48年白滝鉱山跡地の売買契約を以て取得していた県有分(面積2,106,814.8平方メートル朝谷モミノ木23.1ほか194筆地籍調査による)の売買契約が総額24,437,245円を以て成立。鉱山跡地は全部村有地となる。
昭和60年4月(1985) 白滝総合開発着手。